深く音楽を体感することの勧め(後編):Deep Music Experience第2回

by Shinichi Hiramoto(2017.06.28)

前回のコラム(深く音楽を体感することの勧め(前編))にて一過性の消費物として捉えるのでは無く、音楽を友とし、己自身の価値観や心の壁を越え、ミュージシャンたちが曲に込めた想いを素直に汲み取り、深い共感覚を得ながら音楽を吸収するにはどうすれば良いのかと言う方法を紹介し始めました。今回は全6つの点の中でより哲学的な後半2つの要素を紹介します:

 

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個々の音楽には固有の「本質」がある。
人間が用いる各種の表現手段は音楽だろうと何であろうとその制作に影響した各々の内的・外的要因の多様性から生まれる固有の「本質」(注1)があることを意識する。
「本質」とは特定の音楽の傾向や性質を最も良く集約する要素の事。
特定のバンド・ミュージシャンの「本質」、特定の曲の「本質」又はジャンル内で共通する「本質」などを感知し、探究し、気を向けながら聴くという行為にはどう言った利点があるのでしょうか?
第一に個々の音楽やジャンルなど何もかもを一緒くたにして評価したり、「高い」「低い」などと比べて聞くのではなく、各々の音楽の単一性、固有性の中でそのバンド、曲、又はジャンルを理解することを意識することに役立ちます。
第二に特定の音楽の固有の「本質」を感知・理解し、表現する行為は如いては相乗的にその音楽の内的・外的背景の理解の深まりに繋がり、最終的に自己の壁を越えて制作者達の意識そのものと通じ合う手助けとなる。
各々の音楽を単一的に理解することによって共通点も際立つため、最終的には隔たりを超え、特定の音楽どうしに共通する「本質」があることや、(注2)全ての音楽で共有されている本当の意味で普遍的な「本質」もあることが経験を通して垣間見られるでしょう。
音楽の「機能」や「意義」とは個人どうしの社会的又は感情的な意味の共有のみに止まるものなのでしょうか?それとも「意味」などを超えたより普遍的な機能を持ちえる現象なのでしょうか?各リスナーが音楽の「本質」を感知しながら探究していくことは如いてはこう言った質問にも答えを見出すことにも繋がるかもしれません。

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音楽の探求には「史実」Factよりも「詩実」Poetic truthを求める。
個々の音楽の形式、内的・外的背景や他ジャンルへの関連性などに関して深く、広く探求しながら色々な音楽を聞き、繋げ合わせて行く行為の目的は決して完璧な史実や特定のジャンルの完全な文化的・背景的「真実」を知識として蓄積することではありません。
僕ら、音楽を愛して止まないリスナーは「正確」な史実を求める歴史学者のような姿勢で、又は物事の因果関係を固定的に明確化したい科学者のような姿勢で音楽を聴くのではなく、各々の「人生」と言う名の「旅」を歩む旅人として自由な意識で音楽と触れ合って行ければどれだけすてきな事でしょう。
旅先で出会う人々、異文化、景色などありとあらゆる経験に触れ、その経験に意味を与えながら我々一人一人が旅の経験を自分自身の「物語」へと変換し自己に吸収しながら成長するように、音楽を深く「経験」する「旅」に出、その「本質」や「内的・外的背景」を探訪していくことは聞き手自身もその「経験」を通して変化して行く生きたプロセスです。
そこに客観的な史実への執着は肝心では無く、必要なのは各個人が「生きていく」ことに有用であるように音楽を聞く行為・探求する行為・得た知識に「意味」を与えつつ、一つの開らかれた物語を書き続けるかのように「詩実」として音楽と向き合うこと。(注3)

アメリカのロックバンド、グレイトフル・デッドは自分たちの歩んできた数十年と言う長い音楽キャリアに関して自身の歌詞を引用して「Oh what a long strange trip it has been」「なんと奇怪で長い旅だったんだろう」と慈しみを持って語ったことがある。
筆者は音楽をやる・聞くと言う行為を一言で「旅」と呼ぶこの一節がとても好きだ。
グレイトフル・デッドが自分たちの音楽をファンたちと共に旅したように、我々リスナー一人一人はどう音楽を友とし、その友を通して知らぬ世界、知らぬ文化、知らぬ人々の想いの中へと「旅」出来るだろうか?そのあり方は個人の音楽との真摯な付き合い方の結果としてリスナーの数だけ生まれるものだと思います。
今回2回に亘る記事で提案してきたこれらの方法論を是非まずは一つ二つでも試みながら音楽を深く探求して行く扉の前に立ってみませんか?音楽を通して自己の深部へと深く深く入っていき、如いてはその自己を超え世界中の「他者」の作り上げた音楽の世界へと己を純粋に解放していく「旅」としての音楽、その可能性の扉を与えてくれる「友」として音楽を見つめ直していくことをalphanoteは推奨します!

次回からは今回提案したような音楽の聞き方を実際に応用し、筆者自身が探求分析した特定のバンド、曲、アルバムやジャンルなどに関する論考や紹介文を掲載していきます。次回予定は筆者が幾ら他の音楽に浮気しても絶対に立ち返る基礎として長年付き合ってきた「ヘビーメタル」に関する記事を予定しています。お楽しみに!


(注1)本質」とは一般に思われるように「変わり得ない中核」と言う意味では無く、フランスの哲学者ドゥルーズに従い、我々が感覚的に感じ取ることが出来る各々の現象の誕生や現れ方に影響を与え変化し続けるありとあらゆる多様な「要因」・「要素」・「力」の内その現象の傾向をある時と場所において最も支配する「力」”Force”のことを言う。

(注2)一見とても本質が離れているような音楽でも繋がりが見出せる例題:ブラックメタルは人類の愚かさへの完全な失望から来るニヒリズムをロマン主義的な自然賛美や、秩序の崩壊の象徴としての悪魔崇拝、神秘性を感じさせる美意識と共に暴力的に表現する音楽。それに対しブルースは黒人労働者の日常の中から生まれる受難や愛の喜びや苦しみ、キリスト教の影響を受けた戒めなどをストレートに表現する音楽。一見繋がりが無いように思えますが、最初期にレコーディングされたブルースミュージシャンの一人ロバート・ジョンソンが十字路で悪魔に魂を売り、その引き換えにギター演奏の技術を手に入れたと言う伝説などにもある通り、初期のブルースには歌詞も含め「悪魔」に纏わる要素も多く、また狂信的なまでにキリスト教の影響を受けた宗教色の強い歌詞など、アフリカンアメリカン達が母なる大地アフリカから脈々と受け継いだトライバルな信仰感覚と相成ってそこにはえたいの知れない法術性・宗教性や儀式感が漂っていることもあり意識的にそういった雰囲気を欧州的な美意識から生み出そうとしているブラックメタルとは図らずとも共通する要素もあることが感じ取れます。ブルースはクラシックと並びヘビーメタルの形成の最も元始的な影響の一つとされているので、遠いとは言え音楽的な線も見出せるですが、決して直接的な影響とは言い難い中フランスのGlorior Belliと言うバンドのようにこのブルースとブラックメタルにおける「悪魔」を介した共通性を意識してブラックメタルにブルースの要素を取り込む先祖回帰的な発展(atavism)もおこっているので強ち筆者個人だけがこれらの音楽に繋がりを見出していたわけでは無いようです。

(注3)この点において古代ギリシャの哲学者達が共通認識として持っていた「汝自身を知れ」(gnōthi seauton)、即ち己を深く探求することは如いては自己を超えた他者・世界と言う現象の理解へと繋がると言う真理は音楽においても全く同様であると言える。自己と音楽の関係性、受ける「感覚」を通した音楽に関する自己認識を極限にまで突き詰めることによって最終的には己の認識の限界を抑圧していた概念・偏見や常識を壊し、己が「自我」に隔離されていると言う幻想を超え、他者と共有される「力」に素直に心を開く道。そういう意味では著書Art as Abstract Machineにてスティーブン・ゼプケ(Stephen Zepke)博士が提案したビジュアルアートと個人の関わり方、即ちアートから受ける「感覚」を吸収し、解釈し自己の在り方、成長へと反映させていく一種の「自己の面倒を見る」ための「技術」「道具」(ギリシャ哲学におけるepimeleia heautou)として音楽と関わっていくことも可能であり、今コラムの内実はそう言った音楽との向き合い方を提案していると言えます。